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死という存在

ちょっと視点を変えると、実は違う世界が広がっていたりする、そんな日常生活での気づきをお届けする、のほほんワールドをお伝えしていきます。



死という存在




今回ののほほんワールドは、とっても深いお話だと思います。

精神世界の真実を追求していく上で、極めて最端に関わってくる世界というべきか、

私は宇宙を創造した神様と、地球を管理している神様が行き来きしているデータを感じて、

気づきや悟りを探しているところでもあります。





私は、頭痛にあった真実を受け入れたら、そのネガティブな自分がずっと隠していた

本格的な深い真実を開いてくれたような気がした。

それは、いきなりふっと宇宙に存在する全知全能のような近い存在から降りてきた気づきにも感じられた。

ネガティブな自分が、それの柱になってくれたのだ。


彼が仲介になってくれた真実・・・・それは、




もしかしたら、死の存在って、存在しないのではないだろうかって。



人間というものは、死を考えることで、静かになり、黙祷の心に入ったかのように静まり、

時に悲しんだり、時に悔やんだり、時に精神的にネガティブな方でずれてしまったりするときがある。

その亡き存在と、自分の心に近ければ近いほど、自分という心には深い黙祷や深い感情が生まれる。

逆に自分が知らない人や自分にあまり関わりがなかった人の死を聞いても、人というものはあまり深い感情を生むことはなかったりする。

それが人間という本当の正直な心理ではないだろうか。


でも、人間というのは、集団や社会で生きていくうちに、

いつの間にか、死という言葉に重く感じたり、深い感情を生むものだと感じるようになっていった。


だから、そんなフィルタがあると、本当の人という心というのは、意外に混乱しているのではないだろうか?


ニュースで毎日毎日毎日毎日、残酷な死を聞いているし、

動物の死は世界中にたくさん起こっている。

ドラマや映画、ゲームでは、そんな残酷な死を創造したり、たくさんの人々はそれを見て、共感することで楽しんだり、喜んだりする人々もいる。


残酷な死を知っているのにも関わらず、人はそれは他人事に流し、動物であればそれを食べたりもしている。


そんな現実や真実を知って、その情報をきっかけに変に正義感を作り、感情を荒立てる人たちもいる。


これが・・・混乱だ。

事実、上記の話を聞いて、身近な死を経験したばかりの人間が聞いたら、深い感情に陥ったりするのではないだろうか。



一体、いつから人間は、死を重く意識するようになり、いつから死は悲しみや悔やみ、怒りを生んだりするようになったのだろうか。




高次元の世界から見れば、実は死というものは、重いものではなく、全く逆で非常に軽いものである。

死なんて、いとも簡単に起こすことが出来て、死というものは素晴らしいということでもある。

しかし、人の意識が作り上げた『死』というものが、魂を重くし、死後の世界ができてしまうのだ。




今まで関わってきたクライアント様の中で、

『家族は数年前に亡くなっている』という方もいれば、

『息子は数十年前に亡くなっております』という方がいた。


最初にその話を聞いたとき、

人というものは思わず

『それはごめんなさい。悪いことを言いました。』

っと謝ってしまった。


私は、形として謝ったりしたが、

本当の気持ちは、なんで謝る必要があるのか?って

どうでもいいなーって感じてしまった。


そんな話を聞いて、なぜわざわざ自分の心を黙祷しなければいけないのだろうか?


知らなかった事実である。

また、実際に会ったこともない。

それに、本当に存在したのかも分からない。



その時に重要なのは、その亡き者が、クライアント様に関わっているのかだけで、

亡くなっていようが生きていようが、どちらでもいいのだ。

ただ、その存在が不自然に傍にいれば、それは非常に問題があるのだ。


これが、せっかく自由になれた死者、もしくは生きている者を束縛しているクライアント様の問題でもあるということ。


ここまでお話を聞いた読者が、まだ私の言っていることが人間として非情で残酷と感じるならば、それはまだまだ死に関して学び、たくさんの気づきが必要だと私は思う。













高次元から見た、死というものは、

一段階の卒業のようなものだと思いました。


動物は、よほど人間の感情や思いに束縛されていない限り、死してすぐに次のステップへと光の世界へと行くのです。

例えどんなに愛する相手とのお別れでも。動物たちは愛するものより次の世界を望みます。
なぜなら、もっと愛せる、もっと学べる、もっと素晴らしい出会いがある世界に行くからです。
これは、イルカの世界を見ていると学べます。

また、それが生まれる前の魂本来の意志でもあるのです。






生きるということは

学ぶことなのです。



周りの死というものは、自分のための学びに過ぎません。


そう考えると、自分の捉えている死というものは、自分の学びでしかなく、死は存在しないのかもしれません。


その人の死を、いつまでも悲しんだり、ニュースが伝える残酷な事件、震災や大量生産のための動物、ペットの虐待の死などの情報を取り入れ、それにいつまでも悲しんだり、世界を憎んだり、後悔したり、笑顔やエンジョイを失ったりしていては、

魂の成長は止まったままです。


それらの死から生む、自分の心から何を学ぶか?

それが自分の人生という学びに過ぎないのです。


だからといって、周りの死と対面している人の気持ちを考えず接することはせず、

周りの死と対面している人には謙虚な心で支えることが、大切です。


そして、何よりも無視することも大切なのです。


死から生む気づきを受け入れ、自分がその気づきから強い力としてさらなる人生を歩めるよう、

その気づきから生む大きな幸せを決意できるまで、待つことも大切なのです。



他人が死して、人はさらなる幸せになれることに気づくこと。

これは、ご先祖様に感謝する意から学ぶ真意の一つです。




では、死というものは、どこに存在するのか?


それは、私の高校時代の校長先生の言葉が教えてくれました。

学園祭で、芸の途中である生徒が突如倒れ、亡くなりました。

その時、学園祭が中止し、亡くなったことを全校朝会で知らされました。

その時、覚えている言葉が、


死ぬということは、生きることでもあります。




私はこれが、死の存在だと思いました。

死ぬことが生きていることであること。

死もまた学びであること。

死後、魂は何を望むか?

それが生きている学びの最後の望みなのだと思います。


幸せを望むのか?

宗教の天国地獄の教えの通り、天国に行くのか、地獄に行くのか、

旅を望むのか?

人に対する恨みや悲しみを望むのか?

生きている人間に自分の存在や理解を望むのか?


これが死後の世界への選択なのです。



アセンション、大自然の動きを見ていると、

たくさんの命が大自然から溢れていっております。



戦争を繰り返してきた人間の偉大な歴史を哲学として見ていると、

死ぬものは敗者で、生きているものは勝者

という基礎の思想が当てはまりました。

果たして、そんな考え方を無意識に当てはめている歴史が偉大だとか哲学であるとか、

尊重すべきなのか・・・・。


上記で話したとおり、死というものは、

卒業であり、それは喜びや気づき、愛でもあるのです。

生死に勝ち負けを付けて生きてきた人間は、何も解っていなく、何も感じていないのだと思います。

もしそういう世界が実現していたならば、全生命が敗者であり、生きているものは不老不死の方法を考え、懸命に争い、永遠にそれを研究していたでしょう。


なぜなら、生死に勝ち負けを付けて生きてきたからこそ、さらなるたくさんの敵や恨み、悲しみが倍になって返ってくるからです。

アセンションや大自然の力によって、人間が侵害されることが大自然からの罰であるというスピリチュアルなオカルト思想は、生死に勝ち負けを付けてきた愚かな歴史の人物となんら変わらなかったりするのではないでしょうか。

大自然が起こしたたくさんの死は、アセンションや変化のための、その魂にも必要な死であったりして、共に肉体から離れた魂もアセンションをしていることもあるのです。


これは、大切な存在を亡くした家族を見ていると学べます。


どんなに生きる学びも知らぬままに、赤ちゃんの時から亡くなってしまおうと、

どんなに大切な父や母が途中で亡くなってしまおうと、

人というものは、家族という遺伝子がある限り、

存在が死しても、共に家族として学び生きていることは確かなのです。

また、その肉体から離れた魂も、共に家族と学んでいることも確かという真実なのです。


死だからといって、別れと決め付けるものでもなければ、悲しみや後悔を生むものでもないことは確かだと気づいていきます。



アセンション時代に近くなっていく時、

ニュースで見られた数々の芸能人の中で、

アーティストたちの葬儀は、皆楽しんで、お祭りのようにエンジョイしておりました。


本当は、死した者には祝福するため、皆パーティのように楽しむことが大切だったりするのかもしれません。

しかし、人間はいつの間にか戦争や深い感情で生きる事を繰り返すことで、死は喜ぶものではないと意識するようになったのでしょう。


この死者への祝福は、ご先祖様に感謝する気持ちの意から来ております。


また、あるスピリチュアル団体の思想をもとにした方々は、

自分が死んだら、葬式はしなくていいから

『もうあなたは死にましたよ!』

って大声で私に意識して言ってほしい

っという方々がおりました。

死を自覚させるため、さらなるステップへ行くため、その魂のために、遺族たちが気づかせ光に導く必要がある。

これが最も大切な行いであると言っておりました。


これから、新しい時代に沿って、死というものは、マイナスの深い感情が不必要になり、本当は何が大切なのかが大きく見えてくるでしょう。


毎月、スピリチュアルの茶話会やイベントを開いております☆
http://ameblo.jp/spiritualtraveler/theme-10049376654.html









※過去世のカルマがなければ、人は比較的かなり楽に、この『死』に気づけるでしょう。


人というのは、何千年と戦争を繰り返して生きてきたわけで、そこから受け継いだ魂のDNAや先祖のDNA、そして過去世が、死というカルマをそう簡単に許せないのかもしれませんね。




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プロフィール

スピリチュアルな旅人

Author:スピリチュアルな旅人
現実は魂の学びのため、幸せのため必要としているのだと思います。

だから、無駄な人生だとか無駄な時間だとか、そういう考え方ってなかったりする事に気づくことで、世界は自分で変えられることが分かってきます。

全ては自分が創り出していくことを覚えておくと、この先、楽だったりもします。


人生如何に楽しめるか・・・いかに幸せになれるか・・・それが大切です。

そんな暇人が口説くスピリチュアルなブログです☆

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